あの世からもきっと応援してる~文化芸術振興基金~

松樹偕子(ともこ)さん

 息子が小さいころ、「お父さんのようにお芝居の仕事をするひとになろうかな」と言った。しかし中学生になった時、「演劇の仕事をするには公務員の奥さんもらわなきゃならないからやっぱりやめた」と言った。

 その時この種の仕事に関わる分野の、日本における立ち位置の現実を思い知ったものだったけれど、それが我が家の現実だったから笑って通り過ぎた母子の会話だった。

最後まで有名人にならなかったし、舞台の裏方はそのまま社会の裏方としてあの世へ行ってしまった。

 演劇科を経て大卒後、俳優座養成所に学び、当時花形だった山本安英率いるぶどうの会助監督としてスタート。その後いくつかの劇団を渡り歩いた。

 彼が演劇界から運んでくるお金は不定期で次はいつ渡されるか予想がつかなかった。

しかし旅公演に出る時、裏方に必要な愛用の道具や仕事着をカバンに詰め込む姿は嬉々としていた。当時行く先々に立派なホールや会館がある所は少なかったから、学校公演など腕の見せどころだったらしい。表に立つ俳優たちを引き立たせるための大小道具の位置を決め、幕間の短時間での素早い転換の先頭に立つ。そして開幕の緞帳を挙げる時の緊張とワクワク感は私にも伝わっていたからそれなりの拍手を送っていたものだ。何十回となく演ったという「夕鶴」や「奇跡の人」(ヘレン・ケラー)、「明治の棺」(田中正造)。

ささやかな社会貢献は感じていたから、渡される額の多少にかかわらずありがたく受け取っていたものだ。

 30年後の今、コロナ騒ぎの中でマスコミは連日芸術・文化に対する支援、当事者たち、政治家たちの声を載せている。遅きに失したとは思うけれど、4年前辺野古の座り込みに短時間だったが参加、その後2時間ほど沖縄の実情、闘争の経過など熱の入った講演を聞いた。その中で心に残っていること。それはこの長きに渡る闘争を支えているものは沖縄の文化だと。

 

 私自身も今、初めて知る社会の仕組み、経済の仕組み。知らなかったことが多すぎた。こんなにも多くの人に支えられて生きていたのだと。人類の知恵と愚かさと。高齢であるが故の恐怖の中で改めて知る収穫は、はかり知れない。自粛のため毎日続けているウォーキングの中で迎えた30年目の命日。裏方人生にも陽の目が当たる時が来たよ!と一言つぶやく気になった。